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埋もれた文化財の話 24 |
| 年輪年代法 年輪年代法とは、樹木の年輪(木目)の変動や変化を手がかりに、その樹木の伐採年代や枯死年代を求める自然科学的年代測定法の一つです。欧米では、早くから研究が行われ、さまざまな分野で応用され、大きな成果をあげています。しかし、わが国では、この方法についてはいまだ懐疑的な研究者もいます。それは、温暖多湿で、変化の著しい気象の影響をうけ、しかも、おなじ地域でも、地形や地質によって樹木の分布や成育の異なるわが国では、気候のサイクルが、比較的規則的な乾燥地帯である欧米のように、日本全土に適用できるような年輪グラフを得ることは困難であるとされてきたためです。 たしかに、年輪年代法は、100年以上の年輪があること、筋のよい樹木、すなわち、毎年順調に成育して木目の素性の良い材に限られること、対象が、ヒノキ(檜)・スギ(杉)・コウヤマキ(高野槙)の三種に限られることなどの制約はあるものの、弥生時代の一部の試料を除いて、土器の年代とほぼ一致することや、伝世されてきた工芸品や仏像などを対象とした調査においても、従来の研究成果の年代とそれほど齟齬をきたしていないことなどを考慮すると、年輪年代法は、遺跡や遺物の年代を確定する重要な自然科学的方法と認めて問題ないといえます。 紫香楽宮と年輪年代 年輪年代法が一躍注目を集めたのが、紫香楽宮跡の比定です。紫香楽宮跡については、宮跡として、国の史跡に比定されている遺跡が、寺院遺構であることから、その比定を疑問視する意見が早くからありました。しかし、史跡周辺で宮跡の候補地になりそうな遺跡はありませんでした。ところが、昭和40年代に、史跡から約1.5 北方の宮町とよばれる地域が圃場整備された際、数多くの柱根が掘り出されました。当時は、何の関心ももたれず、多くは廃棄されましたが、そのうち盆栽置きに適した3本の柱根だけが残されました。あるとき、遺跡の分布調査をしていた文化財関係者が、この柱根を発見し、紫香楽宮の柱根ではないかとして譲り受け、近江風土記の丘資料館で保管していました。その柱の存在を、年輪年代法の研究を始めて5年余りの奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が知るところとなり、3本の柱根の年輪年代を求めたところ、樹皮の一部が残存していた一本の伐採年代が、紫香楽宮造営の勅が出された翌年の743年を示したのです。この結果にもとづいて信楽町教育委員会が、宮町の発掘調査を行ったところ、柱根や土器や木簡など多数の遺物が発見され、さらには、宮の中枢施設と考えられる長大な大型建物跡が検出され、宮町遺跡こそが、紫香楽宮跡であることが確認されました。かくして、紫香楽宮跡の発見は、わが国最初の年輪年代法の応用事例として学史に残ることになったのです。
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| 木製品と樹種 私たちの身のまわりには、木でつくられた日常生活用品が数多くあります。このなかには、櫛はツゲ(黄楊)、下駄はキリ(桐)、ソロバン玉はヒイラギ(柊)、碁・将棋盤はカヤ(榧)、擂粉木はサンショ(山椒)というように、製品によって樹種が決まっている例が多々あります。これは、堅さやしなやかさ、滑り具合い、吸湿性、見栄えなど、それぞれの製品の用途に適した樹種を、長年の経験にもとづいて選んだ結果と考えられています。こうした製品と樹種の関係は、いつ頃成立したのでしょうか。 丸木弓と樹種 出土木製品でカヤといえば、〃丸木弓〃くらいですが、それも西日本に限られています。縄文・弥生時代の丸木弓の材は、一部に例外はあるものの、東国・西国を問わず〃イヌガヤ〃です。カヤと名がつくので榧(カヤ)の一種かと思う人もあるようですが、葉や実が似ているものの、別科・別属の樹木です。イヌと名がつくのは、何をくらべても、本物に劣るためとされています。丸木弓に用いられたのは、材が、堅くて粘りがあるうえ、丸木弓にするのに手頃な長さの枝が容易に入手できたためと考えられます。 弓といえば、〃梓弓〃・〃真弓〃の語を思い浮かべる人も多いかと思います。アズサ・マユミともに縄文時代から弓として使用されていることが知られていますが、その数はきわめて少なく、なぜ、梓弓・真弓の名が弓の総称になったのかは明らかでありません。なお、法隆寺や正倉院・春日大社などに伝世されている弓の材には、梓・檀(ハジ)・櫨(マユミ)などもありますが、その多くは槻(ケヤキ)です。 木製盾と樹種 弓とセットになるものといえば盾です。木製盾は、全国各地から出土していますが、木製盾に用いられた樹種は、そのほとんどがモミなのです。モミは、わが国特産の常緑針葉樹で、大きいものは、高さ40m、直径2mにもなり、北は東北南部から、南は屋久島まで生えています。材質は木理通直で加工は容易ですが、肌目は粗く、軽く軟らかで狂いが出やすいという欠点があります。 モミ材は、ヒノキの植生しない地域では、しばしば、ヒノキの代用品として使用されますが、木製盾は、ヒノキを産出する地域でもモミを使用しているので、ヒノキの代用でないことは明らかです。とすると、木製盾は、モミという材質と深くかかわっていると考えざるをえません。
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![]() 木製漆塗り弓 縄文時代 彦根市松原内湖遺跡出土 黒漆を全体にかけた上に、糸状の繊維を密に巻きつけて赤漆で固めている。樹種はカヤである。 |
| 櫛(くし)と樹種 櫛といえば「モミジ(紅葉)の簪、ツゲの櫛」と童謡にも歌われているように、ツゲというのが常識です。しかし、出土品からみると、櫛にはツゲだけでなく、イスノキ(柞)・カナメモチ(要黐)・モッコク(木斛)・ネジキ(捩木)などの樹種も使用されています。ところが、平安時代に記された『延喜式』の「梳」の条には、櫛の材料には「由志木」(イスノキ)と規定されているのです。イスノキなどという樹種は聞きなれない名前ですが、高さ約25mにもなる常緑高木で、材は、光沢美があり重硬で、日本産の材のなかでは最も重く強いものの一つです。腐りにくく保存性は高いが、割裂・切削などの加工は困難な材とされる樹種です。イスノキは、光沢があるとはいうものの、ツゲと比較すれば一段も二段も劣ります。ツゲの櫛の優秀さが早くから知られていたことは、『万葉集』にツゲの櫛が数多く詠まれていることや、奈良時代の遺跡からツゲの櫛が出土していることからも伺われます。 県内の遺跡からは、ツゲ、イスノキ、カナメモチの櫛が出土しています。草津市の襖遺跡からは、7世紀代とされるカナメモチの櫛の未製品や原木が出土しています。これらの未製品は、櫛の製作過程を知る他に例のないきわめて貴重な資料ですが、その未製品が、最高級品であるツゲでも、律令に定められたイスノキでもなく、別名・カナメカシ(要樫)とよばれるように堅く粘りはあるものの、光沢という点では数段見劣りするカナメモチであるうえ、技術的にも稚拙さがみられることから、はたして流通を目的として製作されたものかどうか疑問の残るところです。それにしても、律令国家は、庶民からも高い評価を受けていた一級品のツゲでなく、なぜ、二級品のイスノキの櫛にこだわったのでしょうか。興味のあるところです。 櫛はツゲという常識が成立するのは、おそらく江戸時代中期以降と考えられます。それは、経済力を持った町人たちが、幕府の奢侈禁令の及ばない頭(櫛・簪・笄)や足元(下駄)に贅をつくし、最高級品を競って求めたためです。町人たちの心意気と、ファッションへの目覚めが、いわゆるブランドを生み出したのです。 |
![]() 横櫛(イスノキ) 8〜9C 高島郡高島町鴨遺跡出土
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| 下駄と樹種 下駄といえばキリという言葉が自然と口から出るほどです。下駄には、おなじ材から台と歯を造り出した連歯下駄と、台と歯とを別々の材で造った差歯下駄があります。現在の下駄はほとんどが連歯ですが、蛮カラの象徴である下駄は、台はキリ、歯はホオ(朴)の差歯でした。下駄は、5世紀頃に出現しますが、その材質はさまざまで、身近に生えている樹木を適当に使用していたようです。下駄の材にキリを用いるようになったのは江戸時代の書物からみて、近世の中頃と考えられます。それは、キリが、軽くて見栄えがよいためです。ただし、江戸時代の遺跡から出土する下駄は、それまでと同じく、ヒノキ・スギ・クリ(栗)を中心に、樹種は多種多様で、キリ材はほとんどありません。江戸城下町のある遺跡では、出土した下駄のほとんどがクリ材であったという事例も報告されています。浮世絵などには漆塗りの下駄が数多く描かれていますが、出土品のほとんどは素木の下駄です。絵画や文献資料と出土品が必ずしも一致しない例は、しばしばみられますが、これもその一例です。 木製農具と樹種 全国各地からさまざまな木製品が出土していますが、樹種とのかかわりで注目されるのは農具です。1960年代の前半に発掘された大中の湖南遺跡では、弥生時代中期とされる多量の農具が出土しました。このなかには、農具の製作過程を知る未製品も数多く含まれていて、農具の研究に画期的な成果をもたらしました。その後、松原内湖遺跡や中兵庫遺跡などの遺跡から身と柄が装着したままの鋤や鍬が発見され、弥生・古墳時代の農具の実態がようやく明らかになりつつあります。 弥生時代だけでなく、古墳時代の農具のなかにも、柄だけでなく刃も木で作られたものがあります。木で土を耕すのですから、刃は、当然、材質の堅緻な樹種が使用されました。とりわけ多いのが、アカガシ(赤樫)やシラカシ(白樫)などのアカガシ亜属とよばれるカシ類です。カシ類は、芯から外皮に向かって放射状に走る放射組織とよばれる木質組織が発達しています。このため、カシ類は、丸太材に楔を打ち込んでいくと、ミカンのように三角形の材が比較的簡単に得ることができました。この製材法をミカン割りとよんでいます。遺跡から出土する木製品のなかには、必ずといってよいほど、ミカン割りされたカシ類の原木や、加工途中の鋤・鍬をみることができます。 現在でも、鋤・鍬の柄を作る〃棒屋〃とよばれる職業の人たちがいます。この人たちによると、鋤・鍬の柄は、カシ材が最良であると言います。土を耕すのですから、当然、刃も柄も強靭な材でなければならないと考えるのが自然です。ところが、出土した農具のほとんどは、刃はカシ類ですが、柄はコナラ(小楢)やサカキ(榊)・サクラ(桜)・ムクロジ(無患子)など種々雑多で、どちらかというと軟質で比較的折れやすい樹種が用いられています。これはいったい何を物語っているのでしょうか。 刃も柄も堅固であれば、刃が破損する確率が高くなります。農具の刃を作るのは、原木の伐採から加工に至るまで、大変な労力が必要です。柄も刃も破損しないのがもっとも望ましいのですが、何らかの要因で破損することは避けられません。その場合、刃よりも柄が破損するほうが、原木の入手だけでなく、取り替えも簡単です。現代のように鋼鉄で刃がつくられていれば、柄も堅固なカシ類でも差し支えありませんが、鉄の農具といっても、刃先の一部だけで、しかも、摩滅や破損のしやすい軟鉄を使用していたことを考えると、なおさらです。このことから、弥生・古墳時代の人びとは、刃を財産、柄を一種の消耗品と考えていたことが、樹種によって知ることができます。 杵と樹種 |
木製一木鋤 弥生時代 蒲生郡安土町大中の湖南遺跡出土 木製竪杵(ツバキ) 古墳時代 守山市赤野井湾湖底遺跡出土 木製竪杵(カシ) 弥生時代 蒲生郡安土町大中の湖南遺跡出土 |
| 石の工具から鉄の工具へ 縄文時代の遺跡からは、鉄製品は出土していないので、木材を加工する道具は、すべて石で作られた石器と考えられています。縄文時代の石の道具には、打製のものと、砥石で磨いた磨製のものとがありますが、木を切り倒したり、削ったりする工具は、磨製石斧とよばれるさまざまな形態の石斧でした。実験考古学によると、伐採用の石斧の威力は、現在の私たちが考える以上に鋭利であると報告されています。 弥生時代になっても、中期前半頃までは、もっぱら磨製の石斧が使用されていたことが、各地の弥生時代の遺跡から出土する石斧から知られます。ただ、縄文時代と異なるのは、石斧の種類が多様化することです。とくに、両刃と片刃の2種類の石斧がみられることは、用途に応じて使い分けられていたことが知られ、注目されます。また、石斧の柄も、縄文時代にはほとんど使用されなかった強靭なカシ類が使用され、より威力を増した工具になっています。 弥生時代も中期になると、石斧の出土量が激減し、ついには姿を消します。これは、弥生中期後半以降に、鉄製工具が全国的に普及したことを示すと考えられています。弥生時代のはじめにも、鉄の工具が存在していたことは、木製品に鉄製工具の加工痕が残っていることからも明らかです。しかし、石斧の出土量などから推測して、その流通量は少なく、高杯などの特別な木製品を作るときや、最後の仕上げの段階などに使用されていたにすぎないとされています。 弥生時代、とりわけ前期の遺構のなかに、木器貯蔵穴とよばれる土坑があります。これは、乾燥した木材は、石斧での加工、とりわけ細部の加工が難しいため、水に浸して木材を柔らかくし、石の工具でも容易に加工できるようにする工夫の一つと考えられます。この木器貯蔵穴が、中期になると急速に姿を消してゆきます。これは、鉄器の登場によって、木材を水に浸して柔らかくする必要がなくなり、貯蔵穴も掘られなくなったためと考えられます。 斧(よき)と釿(ちょうな) 斧は、伐採用の斧(ヨキ)と、加工用の釿・手斧(チョウナ)に分けられます。斧は、柄の主軸と斧身(刃)とがほぼ平行するものを、手斧は、柄の主軸と斧身とがほぼ直交するものを指します。一般に両刃のものは斧、片刃のものは手斧とされていますが、片刃のものがあまり見られない縄文時代では、大きく・太い磨製石斧が斧、小さく・やや偏平な磨製石斧が手斧に使用されたと考えられています。弥生時代になると、柱状片刃石斧、偏平片刃石斧、小型方柱状片刃石斧(鑿型石斧)など、手斧専用とされる石斧が出土します。 弥生時代になると袋状鉄斧、板状鉄斧とよばれる鉄斧が出土します。鉄斧は、柄に装着されずに出土した場合、斧なのか手斧なのかを判断することは大変困難ですが、大きさ(重量)や刃部・袋部の作りなどから、斧と手斧の区別がなされています。県内からは、高島郡新旭町・熊野本遺跡と守山市・赤野井湾湖底遺跡から板状鉄斧・袋状鉄斧と考えられる鉄製品が出土しています。 古墳時代になると古墳の副葬品として、さまざまな鉄製品が出土しますが、武器や武具に比すると、鉄斧やノミ・ヤリガンナなどの工具類の出土量は、それほどでもありません。県内の古墳出土の鉄斧として特筆されるのは、草津市・北谷11号墳出土の斧身と握り部まで連続して作られた「鉄柄付き手斧」です。出土している2本のうち1本は、ほぼ完存していて、柄の中間部に捩りを加えるという、他に例のないものです。手斧には、伐採し、打ち割った材を削る(はつる)製材用の両手で使用する大型品と、板や棒などを加工する片手で使用する細工用の小型品の2種類があります。 江戸時代の辞書には、手斧の柄はニレ(楡)がよく、次いでエンジュ(槐)、ケヤキがよいと記されていますが、実際にはエンジュが最も多く使用されていたようです。建物を建築するときや、仏像を造像するときには、最初に〃釿始め〃とよばれる儀式を行いますが、これは、カミの加護をうけて無事に作業が終了することを、工具のなかでは最も重要な役目を果す手斧に託したのではないでしょうか。 それはともかく、中世以前の鉄は軟鉄とされていますので、すぐに摩滅したり、刃が欠けたり、折れたりしたと思われます。そのような斧や手斧をどのように手入れして使用していたのか大変興味あるところですが、実態は不明です。おそらく、ある程度使用すれば、焼入れして、砥石で研磨するという手入れを繰り返し行い、最終的にはリサイクルして、新しい斧や手斧に作り替えたと考えられています。時代が新しくなり、鉄製品の使用が増大するにもかかわらず、鉄製品の出土が逆に少なくなるのは、鉄のリサイクルが徹底して行われていたためとされています。 |
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| (左の写真) 弥生時代の石斧 上・扁平片刃石斧(栗東市霊仙寺遺跡・他) 中左・柱状片刃石斧(長浜市塚町遺跡・他) 中右・ノミ型石斧(守山市服部遺跡・他) 下・蛤刃石斧(彦根市松原内湖遺跡・他) |
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![]() 鉄柄付き手斧実測図 草津市北谷11号墳出土 中司照世・他「滋賀県北谷11号墳の研究」 (『考古学雑誌第66巻第2号』より) |
![]() 手斧で板を削る大工 (『春日権現験記』より) |
鋸(のこぎり) |
![]() 上・広島県福山市草戸干軒町遺跡出土 下・三重県上野市下郡遺跡出土 伊藤実「日本古代の鋸」(『考古論集』より) |
![]() 木の葉型鋸15C後葉野洲郡中主町光明寺遺跡出土 中世の鋸の出土の詳系馴ま不明であるが、県内では本出土例が唯一のものである。これはX線写真で各所に歯が写っている。鋸は柄に近いほうが厚いので、白く写っている部分が柄と考えられる。 |
![]() 前挽き大鋸 木材を縦に挽く鋸である。大きいため力が必要にみえるが、子供でも挽くことができるという。ただし、真直ぐに挽くには高度な技術と鋸の手入れが必要であった。 |
![]() 木の葉型鋸(『石山寺縁起絵巻』より) |
![]() ヤリガンナ 平安時代 大津市浮御堂遺跡出土 木質部は腐食しているが完形品である。 |
![]() ヤリガンナの使用風景 古墳出土のヤリガンナは短いが、中世にはこのように長くなる。両刃で、両手で使用する。(『春日権現験記』より) |
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![]() 打ち割りの光景 材に筋状にノミ穴をあけ、木の模で打ち割った。 (『春日権現験記』より) |
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